(聞き手)
発災直後にいらっしゃった場所と、その後の行動や対応についてお聞かせください。
(山田様)
私は、地震発生時には庁舎で
下水道関係の事務をしていました。かなり大きい地震だったので机の上の本や書類などが全部崩れまして、これは大変だと思いました。
ちょうどその時、雨水
ポンプ場では点検業務を行ってもらっており、
ポンプ場というのはどこもかしこも河川沿いに整備されているものだったので、まずその点検をしている人たちに津波の
情報や地震の大きさを伝えなければと思いましたが、電話がつながらなかったので現地に出向きました。
出向いた先が浮島雨水
ポンプ場だったのですが、そちらに行って現地の作業員たちに「津波が来るかもしれないので退避できるようにしてください、必ずラジオなど、
情報が得られるものを手元に置いて対応してください」というようなことを伝えました。
それから、今度は津波警報が出たので、大代にも雨水
ポンプ場があるのですが、私がそこの
水門を閉めに行きました。その
水門操作をしているときに、
下水道課から幸いにも電話が入りまして、「大津波で数メートルの津波が来るので、すぐ逃げてください」と言われ、そこから退避しました。
しかし、その時、道路は渋滞でどこにも逃げられるような状況ではなかったので、近道をなんとか通って私は多賀城東小学校に行きました。
そのときにはもう津波の第1波が来ていて、当然ながら地元住民の方も小学校に逃げていたので、その人たちの誘導をしました。
それから大代方面から小学校へ渡る中峰橋という橋で、川の様子を見ている住民がかなりいました。
ちょうど橋桁から1メートル下くらいまで波がきていたので、船が何艘もぶつかって、そのたびに橋が揺れるのです。それでも携帯電話などで写真を撮っている住民がかなり橋の上にいたので、マイクなども使って「危険です」と言ってすぐ避難させました。
また、小学校に上がるところが坂なので、ご年配の方々を押してあげたりなどもしていました。地震直後はそのようなことを夕方までずっとしていました。
(聞き手)
偶然そちらに居合わせたので、そこでそのような対応をされたということでしょうか。
(山田様)
そうです。多賀城東小学校は、周辺の土地よりも一段高いところにありますので、多賀城東小学校に避難された大代地区に住んでいる方々は、自分の目の前に自宅が見えるのです。
飼い犬を残してきたというご夫婦の方がいて、「どうしてもその犬を助けたいので、自宅に戻っていいか」ということを散々聞かれたのですが、「それは危険です。津波がおさまるまで我慢してください」と引き止めました。
その後、庁舎に戻ってきて、
下水道関係の対応をしていました。浮島雨水
ポンプ場以外の
ポンプ場の状況が全く分からなかったので、まずはすぐ近くの中央雨水
ポンプ場に行って現況調査をしていました。
ちょうどそのとき、夜の9時、10時くらいでしょうか、精油所の爆発がありました。中央雨水
ポンプ場にいたときに、ガラス窓に普段では映るはずがない明かりが見えました。それを不思議に思い、窓を開けてみたら外ではもう爆発していました。
ちょうどその爆発したところから数百メートルの位置に八幡雨水
ポンプ場があるのですが、そこに職員がまだ3人いました。
夜は津波による浸水が腰以上の高さまであったのですが、3人はそれに浸かりながらなんとか逃げて、途中で自衛隊の救助ボートに乗せてもらって、自衛隊の中で一夜を過ごしたそうです。
(阿部様)
私はその日は仙台にいました。仙台の街の中はすごいことになっていて、もう建物の近くには誰もいなくて中央分離帯にみんな逃げているような状況でした。車も全部動かない状態でした。
ただ、電車が止まっているというのは聞いていたので、タクシーを捉まえてでも多賀城に戻らないと駄目だと思いました。
ですが1時間くらい探してもタクシーが見つからず、仕方なく徒歩で戻ることにし、夕方5時半くらいに多賀城市に着きました。2時間ほどかかりました。
概ね国道45号を走って戻ってきましたが、途中で津波が来ているということを携帯のテレビをたまに見ていたので気づいていたというのと、七北田川の田子大橋を渡るときに川が黒くなっていたので、これは津波が来ているから、多分このまま国道45号を走っていっても途中で通れなくなるのではないかと思って、そこを避けて走ってきました。そして津波には遭わず、なんとか庁舎に着きました。
そして夕方の6時くらいに職員と合流できたときに、山田さんや他の人たちはまだ
ポンプ場にいるという話を聞きました。みんなが慌てていたので一度整理しようと思い、図面を開いて、何も状況が分からない中、想像をしながら、明日の朝一番に動ける態勢を作ろうと職員一丸となって準備していました。
あの時点では、まだ津波直後だったので、どこにも出るなという話になっていましたが、私たちは出るなと言われても動かないといけないだろうと考えました。
しかし、真っ暗で水も引いていない状態だったので、確認できるところまで確認して戻ってきました。
翌日、3月12日の朝5時か6時くらいに、車だと行けないところもあるので自転車を使おうということで、自転車を使って山田さんと2人で朝から施設を全部回り、被害の状況を把握してきました。
発災3日目の3月13日に、本格的にその被害をなんとかしようということで動き出しました。
水路に車が挟まっていたり、
水門が閉まっている部分があったりして、街の水が抜けないということで、それを除去できるのであればできる限り除去しようと、みんなでその作業にとりかかりました。
まだ津波が来ていたので、津波の来る様子を見ながら、津波が引くときに
水門を開けて、また閉めるというのを丸一日繰り返していました。車も人力で動くものは持ち上げ、水が流れる状況を作るという作業を行いました。
(聞き手)
では、そういった応急対応というのは震災から3日、4日くらいは人力で行っていらっしゃったのですね。それ以降は応援が入ったのでしょうか。
(山田様)
はい。多賀城市は高速道路や主要幹線道路のアクセスが良かったせいか、山形などから応援に次々と入ってくださり、早いところでは発災3日目、4日目くらいには来てくださいました。