防災・減災への指針 一人一話

2013年10月24日
過酷な環境下での下水道復旧
多賀城市役所 建設部下水道課
山田 智広さん
多賀城市役所 建設部下水道課
阿部 克敏さん

発災時の行動

(聞き手)
 発災直後にいらっしゃった場所と、その後の行動や対応についてお聞かせください。

(山田様)
私は、地震発生時には庁舎で下水道関係の事務をしていました。かなり大きい地震だったので机の上の本や書類などが全部崩れまして、これは大変だと思いました。
ちょうどその時、雨水ポンプ場では点検業務を行ってもらっており、ポンプ場というのはどこもかしこも河川沿いに整備されているものだったので、まずその点検をしている人たちに津波の情報や地震の大きさを伝えなければと思いましたが、電話がつながらなかったので現地に出向きました。
出向いた先が浮島雨水ポンプ場だったのですが、そちらに行って現地の作業員たちに「津波が来るかもしれないので退避できるようにしてください、必ずラジオなど、情報が得られるものを手元に置いて対応してください」というようなことを伝えました。
それから、今度は津波警報が出たので、大代にも雨水ポンプ場があるのですが、私がそこの水門を閉めに行きました。その水門操作をしているときに、下水道課から幸いにも電話が入りまして、「大津波で数メートルの津波が来るので、すぐ逃げてください」と言われ、そこから退避しました。
しかし、その時、道路は渋滞でどこにも逃げられるような状況ではなかったので、近道をなんとか通って私は多賀城東小学校に行きました。
そのときにはもう津波の第1波が来ていて、当然ながら地元住民の方も小学校に逃げていたので、その人たちの誘導をしました。
それから大代方面から小学校へ渡る中峰橋という橋で、川の様子を見ている住民がかなりいました。
ちょうど橋桁から1メートル下くらいまで波がきていたので、船が何艘もぶつかって、そのたびに橋が揺れるのです。それでも携帯電話などで写真を撮っている住民がかなり橋の上にいたので、マイクなども使って「危険です」と言ってすぐ避難させました。
また、小学校に上がるところが坂なので、ご年配の方々を押してあげたりなどもしていました。地震直後はそのようなことを夕方までずっとしていました。

(聞き手)
偶然そちらに居合わせたので、そこでそのような対応をされたということでしょうか。

(山田様)
そうです。多賀城東小学校は、周辺の土地よりも一段高いところにありますので、多賀城東小学校に避難された大代地区に住んでいる方々は、自分の目の前に自宅が見えるのです。
飼い犬を残してきたというご夫婦の方がいて、「どうしてもその犬を助けたいので、自宅に戻っていいか」ということを散々聞かれたのですが、「それは危険です。津波がおさまるまで我慢してください」と引き止めました。
その後、庁舎に戻ってきて、下水道関係の対応をしていました。浮島雨水ポンプ場以外のポンプ場の状況が全く分からなかったので、まずはすぐ近くの中央雨水ポンプ場に行って現況調査をしていました。
ちょうどそのとき、夜の9時、10時くらいでしょうか、精油所の爆発がありました。中央雨水ポンプ場にいたときに、ガラス窓に普段では映るはずがない明かりが見えました。それを不思議に思い、窓を開けてみたら外ではもう爆発していました。
ちょうどその爆発したところから数百メートルの位置に八幡雨水ポンプ場があるのですが、そこに職員がまだ3人いました。
夜は津波による浸水が腰以上の高さまであったのですが、3人はそれに浸かりながらなんとか逃げて、途中で自衛隊の救助ボートに乗せてもらって、自衛隊の中で一夜を過ごしたそうです。

(阿部様)
私はその日は仙台にいました。仙台の街の中はすごいことになっていて、もう建物の近くには誰もいなくて中央分離帯にみんな逃げているような状況でした。車も全部動かない状態でした。
ただ、電車が止まっているというのは聞いていたので、タクシーを捉まえてでも多賀城に戻らないと駄目だと思いました。
ですが1時間くらい探してもタクシーが見つからず、仕方なく徒歩で戻ることにし、夕方5時半くらいに多賀城市に着きました。2時間ほどかかりました。
概ね国道45号を走って戻ってきましたが、途中で津波が来ているということを携帯のテレビをたまに見ていたので気づいていたというのと、七北田川の田子大橋を渡るときに川が黒くなっていたので、これは津波が来ているから、多分このまま国道45号を走っていっても途中で通れなくなるのではないかと思って、そこを避けて走ってきました。そして津波には遭わず、なんとか庁舎に着きました。
そして夕方の6時くらいに職員と合流できたときに、山田さんや他の人たちはまだポンプ場にいるという話を聞きました。みんなが慌てていたので一度整理しようと思い、図面を開いて、何も状況が分からない中、想像をしながら、明日の朝一番に動ける態勢を作ろうと職員一丸となって準備していました。
あの時点では、まだ津波直後だったので、どこにも出るなという話になっていましたが、私たちは出るなと言われても動かないといけないだろうと考えました。
しかし、真っ暗で水も引いていない状態だったので、確認できるところまで確認して戻ってきました。
翌日、3月12日の朝5時か6時くらいに、車だと行けないところもあるので自転車を使おうということで、自転車を使って山田さんと2人で朝から施設を全部回り、被害の状況を把握してきました。
発災3日目の3月13日に、本格的にその被害をなんとかしようということで動き出しました。
水路に車が挟まっていたり、水門が閉まっている部分があったりして、街の水が抜けないということで、それを除去できるのであればできる限り除去しようと、みんなでその作業にとりかかりました。
まだ津波が来ていたので、津波の来る様子を見ながら、津波が引くときに水門を開けて、また閉めるというのを丸一日繰り返していました。車も人力で動くものは持ち上げ、水が流れる状況を作るという作業を行いました。

(聞き手)
では、そういった応急対応というのは震災から3日、4日くらいは人力で行っていらっしゃったのですね。それ以降は応援が入ったのでしょうか。

(山田様)
はい。多賀城市は高速道路や主要幹線道路のアクセスが良かったせいか、山形などから応援に次々と入ってくださり、早いところでは発災3日目、4日目くらいには来てくださいました。

石油製品による炎症への対策

(阿部様)
情報もすぐには手に入りませんでした。まだ携帯電話などの電話もつながったりつながらなかったりという時期で、そしてガソリンも供給できておらず、先ほど言ったように自転車で移動していました。
ですから、現場に行って帰ってくると夕方になってしまっており、今現場はこういう状況だというのを、極端な話、朝に確認をしても夕方くらいにしか報告が上げられなかったのです。
そのようにして、日中見たり、作業した情報を夜にまとめ、次の日の対策を立てるといったことを3~4日は行っていました。
そのうちに車1台程度なら通れるような通路ができたので、徐々に市内の状況確認をしました。そのような対応をしていた結果、私と山田さんは自宅に1カ月以上帰っていない状態でした。
また、作業後の私たちは非常に汚れた状態で帰ってきます。精油所が津波で被災したので、街中油だらけで、少し動くと大変な量の油がつきました。
石油は物を溶かすので、作業着の上に着ている合羽のような素材のものは石油で溶けてなくなってしまい、何枚交換したか分かりません。
石油も灯油も、肌にかかったらきれいに洗わないと炎症を起こしてしまいます。しかし、震災当時は、油まみれになっても洗う水がないので、被災された方の病院に運ばれた原因は、実は、その炎症によるやけどが多かったようです。

(聞き手)
その辺りの知識を持っている方はあまりいらっしゃらないような気がしますね。

(阿部様)
そうですね。私たちも最初は気づかなかったです。

(山田様)
水道庁舎は発電機もあるし、必ず水が出るので、きれいに洗うまではいかないにしても、そこで少し手を洗っていました。

(阿部様)
皆さんにお渡しする水はもちろん確保しますが、動く人間たちが水を飲まないで倒れたという話があったので、私たちが動けなくなって水が提供できなくなったら話にならないので、一応最低限の水だけは確保させていただいています。

職員の自宅にある食糧でしのいだ数日間

(聞き手)
食糧などはどうされていたのでしょうか。

(山田様)
多賀城市職員は農家を兼業している人が多いのですが、私たちの課の職員でも農家をしている人がいたので、米は自分の家で作っているものを持ってきてもらいました。あとは味噌や野菜を作っている人もいるので、そういったものを持ってきてもらっていました。食べ物にはそれほど不自由はしなかったです。

(阿部様)
残念ながら災害対策本部からの食糧の提供はほとんどなかったです。
本部からの配布は、5日後くらいからありました。それまでは何もなく、どうするのかなと不安に思っていました。

(山田様)
農家をやっている職員が先ほど言ったように持ってきてくれたので、おにぎりと味噌汁程度のものは毎日食べられました。

(阿部様)
一度、市民の方が「本当にご苦労さんね」と野菜をくれたことがありました。野菜など全く食べていなかったので、あの時はみんなで喜んで食べました。

(山田様)
意外と市民の方たちも、市役所の職員を気遣ってくれるというところもありましたね。「自分たちも大変だけれども、役所の人たちは不眠不休で頑張っているからありがとう」と言われて、野菜だったり、ジュースだったりをよくくださいました。

下水道事業への市民の理解

(阿部様)
私たちが、毎日、自転車で行って、水門を開けたり閉めたりしているところを見てくれていたそうです。
市民の方に「こっちに来い」と言われて、怒られるのかと思いましたが、お菓子などを持ってきてくれた方がいました。一緒に食べようと言われて、お茶を用意してもらって、震災のときの話を逆に聞かせてもらったりしていました。特に大代地区の方々が協力的でした。
市内の様々なところで「市役所は何をやっていたんだ」と言われ、特に下水道課はいつの間にか、街の中の噂で「津波の水が抜けなかったのは、下水道課が水門を閉めていたからだ」という話になっていました。そんなことは決してなかったのに、そういう誤解もあって、下水道課に対する不信感が非常に高くなっていたのですが、その中でもやはり分かってくれている方は私たちを逆に守ってくれて、いつしかその変な噂は消えていきました。市民の方たちは素晴らしいなと思っておりました。

(聞き手)
市民の方との関わりというところで、とても良いお話ですね。

(阿部様)
下水道は市役所の管轄ですが、例えば、雨水が流れるところや水路、堀などは、市民の人たちも環境整備等で掃除されるときによく見ている場所なのです。
ですので、なんとなく「俺らも大変だけれども、役所の人なんかもっと大変だろうな」というような感覚で、大変さを知ってくれている方もいるようです。

(聞き手)
街の中の津波の水が引いたというのは、どのくらいの時期になるのでしょうか。

(阿部様)
水が抜けて歩けるようになったのは、1週間後くらいだったと思います。

(山田様)
それでもまだ道路の中にはヘドロなどがいっぱいあった時期ですが、なんとか歩けるというのがそのくらいの時期でした。依然としてまだ電気は通らないので、夜などにパトロールに出るときはやはり怖かったです。車がやっと1台通れるところに真っ暗な闇から通行人が飛び出してくるので、怖かったです。

停電による作業時間の制限

(阿部様)
私たちの作業自体も、まだ3月、4月の話だったので、明るいうちしかできませんでした。暗くなると、懐中電灯などがあることはあるのですが、電池も含めて数が限られているのでうまく使わないといけませんでした。特に私たち下水道課は地下に入るので、日中でも懐中電灯を使わなければなりません。ですから、できるだけ夜の作業は懐中電灯が要らないところにしか行かないような、暗くてもできる作業しかしないようにしていました。懐中電灯、電池も沢山あるわけではないので、そこをうまくやらなければいけなくて、だいぶ悩みながら仕事をしていました。

汚水処理場の被災にともなう被害への対応

(聞き手)
先ほど、ヘドロの話もありましたが、下水の処理などの対応もあったのでしょうか。

(山田様)
それもありましたが、相当後になってからでした。

(阿部様)
そうですね。多賀城市の場合は、汚水処理場は大代というところにあるのですが、その処理場は仙台市泉区の一部と、利府町、塩釜市、七ヶ浜町という、広域の汚水を全部処理しているのです。要は70万人分の人間が作り出す汚水処理しています。その処理場が津波に遭ってストップしている状態でした。なので、本当であれば皆さんに下水をお使いになってほしくなかったのですが、水道を使える方々の汚水は相変わらず流れてくるわけです。
そうすると、多賀城はその地域の中では一番土地が低いエリアなので、他の地域から流れてきた行き場のない汚水が多賀城市であふれてしまいます。下水道管は1本でつながっているので、多賀城市のいたるところのマンホールに戻ってきてしまいます。
多賀城市の下水道管にみんな逆流してきて、私たちの街の中のマンホールや、あとはひどいところだと一般家庭のトイレから逆流して吹き出すというような状況でした。その対応が大変で、夜も動いていました。

(山田様)
その作業は頻繁にありましたね。そして1カ所や2カ所ではなく、市内各所で津波があったところは全部だったので、至る所でそういった苦情は来たのですが、なかなかそれも対応できませんでした。
ですから、まずはその住所だけを聞いておいて、あとは現場を確認して、事情説明をして、納得していただけないでしょうけれども、それでおさめてもらってという形で対応していました。それが毎日でした。

水洗トイレの使用を控えていただくための広報活動

(聞き手)
下水が逆流してしまうというのは、基本的に多賀城エリアの方のみだったのでしょうか。

(阿部様)
そうですね。あとはその周辺の七ヶ浜町や、利府町の中でも低いところでは出ていたらしいです。逆流について苦情があっても、そもそも水道の利用を止めることができませんでしたので、「どうしようもないです」と言うしかありませんでした。

(山田様)
それで私たちの方で考えたのは、正常に使えるような、まだ流せるようなトイレについては、小であれば、3回に1回くらい流すなどで極力水を流さない、そして、使ったトイレットペーパーは、例えば、別の袋に入れてもらって、トイレットペーパー等を流さない、大については、極力、付近の仮設トイレを利用するなど、そのような話を広報車などで周知しました。

(阿部様)
それでもやはりできるだけ防がなければということで、あふれがひどく、一番集まってくる辺りで汚水を汲み上げました。その汲み上げた汚水を、塩素を使って浄化しました。
そして、本当は直接放流するのはよくないのですが、できる限りは浄化したということで側溝に流していました。
ただ、もちろんその後、あふれが止まった後は全部洗浄しました。そのような状況が震災の年の6月くらいまでずっと続いていました。

(山田様)
結局処理しきれなくて、先ほど出てきた汚水処理場がありますが、そこで処理ができないので、穴を掘って一時的にその汚水を貯めるという作業をしていました。当然、何も脱臭はしていないので、風が吹くと汚水の臭いがしていましたから、その苦情もよくありました。

虫害や悪臭についての苦情

(阿部様)
6月が過ぎて夏場になってきて、暑い夏だったので、ハエが発生し、そのハエに対する苦情も大変でした。ただどうしようもなかったのです。
街の中の汚水だけがハエを増やしている原因ではなくて、荷物を運搬中に津波に遭ったものがそのままだったりしていたことも原因でした。その処理下水道課がやらなければならなくなっていたので、その仕事もかなりありました。それがやはり一番きつかったです。

(山田様)
冷凍食品などを運搬していた車が横転して、その荷物がひっくり返って、何カ月もそのままになっていて、そこから蛆虫が発生していました。臭気と虫がひどいという苦情がありました。
私たちも現場に行ったのですが、ものすごい状態でした。

(阿部様)
そのときに使った服は臭いが取れなくてもう着られないです。それくらいひどい状態のものが1キロメートル四方にずっと散らばっていました。もう何カ月も経っていて、しかも津波にも遭っているので、埋まっているのです。埋まっているけれども、不思議なことに、その臭いと虫は湧いてしまいます。それを鼻だけを頼りに探して見つけて、2トントラックを1台持ってきたので、トラックに全部積んで、5回か6回運んで処分しました。
とにかく下水道課は様々な面で動かなければいけない場面が多かったです。

市民の協力の必要性

(阿部様)
今回の震災では、避難所運営をはじめ、市民の方に対する対応にほとんどの人員が割かれましたが、それでは駄目ではないかと思うのです。
今もいろんな報道でテーマとして挙がって検討していると思いますが、やはり市民の方にも協力していただけるところは協力していただいて、できるところはできる限り市民自らやっていただき、行政は街を復旧させるところにもう少し力点を置いた動きができないといけないと思うのです。
あのような災害後は、街の骨格が崩れている状態なので、役所がすべきことと市民の方にやっていただかなくてはならないことというものを、きちんと考える機会ではないかと思うのです。

ソフトとハードの連携の大切さ

(山田様)
どうしてもこのような大きな災害ですと、役所でないとできないことであったりとか、役所がしなくてもいいようなところにも役所が要請されたりといったことがあったので、ハード(建物・物資の整備)とソフト(心の整備)とがうまく連携を取れば、もっと違うものになったのではないでしょうか。ただ、もちろん、市民の方も、積極的にやっていただいたところもありました。

(聞き手)
下水道課は避難所運営などには携わってはいないのでしょうか。

(山田様)
携わっていません。現場対応の課なので、どうしてもそちらの方ではなく、現場、ハードのほうを優先にしていました。
市民と協力してというのは、現場対応の中ではそれほど多くありませんでした。

(阿部様)
被害に遭った地区に対して、いつ、どういうふうに下水道を直していくかという説明会などはしましたけれども、それ以外ではあまり接点はありませんでした。
区長さんから呼ばれて、この壊れた所をなんとかしてくださいといったご要望があれば対応しました。
やはり先ほどもお話ししたように、市民の方は水路を毎日のように散歩で見たりしていますので、変化は私たち以上に知っている部分があるのです。

問われたのは情報網が絶たれた中での的確な対応

(聞き手)
 発災当時の対応では、防災計画やマニュアルは活かされましたか。

(山田様)
今回の震災は特別な被害だったので、防災計画や防災マニュアルなどというものは、ほとんど役に立たなかったように思います。阿部も私も多賀城に住んでおり、地理的条件や業務の中身を把握しているので、自分の考えで行動ができたということもありますが、なかなかマニュアルというのは役には立ちませんでした。

(阿部様)
どうしても計画とかマニュアルというのは机上論に近いのです。
今回の災害はあまりにも大きすぎたので、尚更難しいかもしれないのですが、特に、多賀城は水害の恐れがある街なので、なおのこと現実的な対応を意識した、理解しやすい計画であったり、最低限のマニュアルであったりを作る必要があると思います。
ただ、やはり自然災害ですので、マニュアル通りに動けるかというとそうでもないので、柔軟に対応できるようなものを作らないと駄目だなと思います。
机上論で、この仕事は下水道課だから、この仕事は市役所じゃないからということではなくて、臨機応変に、手の空いている人だったら率先してやってもらえるような内容にする必要があるのではないかと思います。あまりにも縦割りになりすぎると迅速に対応することはできません。計画があるから、マニュアルがあるから、といった意識では、やはり震災を乗り切ることはできないのではないかと私は思います。

(山田様)
結局、このようなマニュアルや計画も、要は情報が入ってきて初めて運用ができると思います。
ところが、今回の場合は、電話もつながらない、無線機も結局は充電がなくなると終わりでした。
そうすると、先ほど言ったように、朝行った人が報告できるのは夕方となり、かなり情報としては遅れることになります。そのように情報網が絶たれたときにどういった情報対策を取るのか、それによって次の対策をどう組むのかという問題があります。
今回の場合、マニュアルがあまり役に立たなかったというのはそういう意味です。ここで言う問題とか課題というのは、そういったことが含まれると思います。なにしろ、今はすべてが電気に頼っています。電話しかり無線機もしかり、全部電気に頼るので電気がなくなったらどうしようもないということがあります。
だから、下水道課がある庁舎では、玄関に大きいホワイトボードを立てて、今の現況をずっと書いていくという対応も行っていました。やはり、いかにそういった情報の伝達を確実にできるかということが重要だと思うのです。
さらに、避難する際は、みんなわれ先に逃げるので、交通渋滞がものすごいです。
公用車や緊急車両がスムーズに動けないということも多々あったので、交通規制をかけるなどの法整備が可能であれば、救助活動などもスムーズにできるのではと思います。そういったことは現場を見たときに思いました。

避難と川や鉄道などの地形的制約の解消策

(阿部様)
多賀城は、低い場所にいた方々が高台に来るためには、大きい道路を渡らなければならない、川を渡らなければならない、線路を渡らなければならないということで、関門が多いです。
ですから、これらを考慮した避難路を整備しなければと思います。しかし、避難路を作れば、今度は、車の渋滞も考えられるので、やはりある程度のルールを避難に対しても作らないと、せっかく逃げ道として作った道路がうまく活かされないのではと思うのです。
皆さん、避難道路に集中してきます。
この間も、確か震災の年の4月だったと思いますが、津波警報が出ました。
結局は、潮位の変化程度だったのですが、そのときには、私たちは作業後、庁舎に帰ってこられませんでした。
もう車が沢山集まって渋滞していました。ハザードを点けて、道路に両方から止まっているので、緊急車両すらも通れない状態でした。

(山田様)
下水道課がある庁舎周辺は高台なので、みんな車に乗って家族を連れて避難してくるのですが、交通誘導をする人がいないのです。そこで、私が交通誘導をしていたら、1台の車が寄ってきました。「すみません、病院の医師なのですけれども、優先的に通してもらえませんか」と言われたので、急遽、全部車を止めて、そのお医者さんをすぐ病院に向かわせました。そういった医師だったり、警察官だったり、そういう人たちが現場に向かう時に緊急的・優先的に通れるような対策が必要だと思います。
住民の人は現場から逃げますが、医師などは現場に向かうわけですから、そこのところをうまく対策を取れると本当はいいのだと思います。
 何か車に貼りつけて優先的に移動できるなどの対策ができるといいと思うのですが、そういう風に誘導している時でも「なんで車を止めるんだ」と言う人もいます。実際にそう言われたこともあります。

人間関係の希薄化の問題

(阿部様)
冷静に対応してくださいというのは、車に乗る必要のある人に車で動いてもらい、それ以外の人は車で動かないようにしようという考えを持って欲しいという意味です。
自分のことだけを考えないでもらいたいところです。6万人程度の都市なので、隣同士でいろいろ話し合うなどすれば、例えば、相乗りなど、もう少し避難の状況なども変わってくるのではないかという気がします。

(山田様)
隣近所でつながりがあれば、それぞれの車3台で行かなければいけないところを、みんなで1台に乗ることができるかもしれません。
そうすると道路が少しでも空くはずです。
防災訓練は地域でも行っていますから、そういうこともたまに話し合ってもらうといいのではないかという気がします。

(阿部様)
世の中の人間関係が希薄化していますので、今回の震災を機に、いろんな街でいろんな取り組みをしておられます。
多賀城市も例に漏れず、都市化で人間関係が希薄になっている街なので、役所主体になってどうするということではないと思いますが、そのあたりを充実させるような対策をしなければいけないと思います。
例えば、地域ぐるみで隣の人と焼き肉したりするような些細なことからの始まりでもいいと思います。
私は1カ月以上自宅に帰らなくて、家族がどうなっているか分かりませんでした。
心配していたのですが、そのときに嬉しかったのは、隣のご家族がちゃんとご飯などの世話をしてくれていて「大丈夫だからね」と役所に電話をくれたことです。電話をいただき、安心しました。そういうことを考えると、隣近所は大事だと思います。

(山田様)
夫婦で市役所に勤務している職員もいるので、災害などがあると夫婦で市役所にいなければならず、そうすると子どもさんと高齢者などが残るだけなので、とても不安だったと思います。
だから近所の方が、そういう風に世話してくださるのであれば、仕事に集中できると思います。

自らの安全確保を第一に

(聞き手)
 宮城県沖地震など、これまでの災害の経験で活かされたことはありますか。

(山田様)
宮城県沖地震は高校生のときでしたが、それから考えるとやはり、下手に動かないということが、自分自身は大切だと考えていました。
あまり動き回ってしまうと今回のような津波に巻き込まれてしまうことも考えられますし、まず自分が安全な状態なのか、安全な場所にいるのかどうかということを少し考えるようになりました。
職場の部下には、よく、まず、地理が分からないと、安全な場所に到達できる道というのも当然分からないので、常日頃ただ漫然と街を回るのではなくて、ここに行けばこういうところに行って、その回り道はどうだったか、今の地域は低いのか高いのかということもパトロールなどの時に考えながら動きなさいということを言います。
伝えたいことと言えば、そういうことでしょうか。
まず、自分が安全でないと人を助けることはできないと思っていますので、まずは自分の安全を確保する、それで余力があれば、他の人の救助に行くことができると思います。

(阿部様)
私は宮城県沖地震の時は、石巻市の渡波というところに住んでいました。
幼かったので、ブロック塀の近くには地震が来たら寄るなという、そういう程度の教訓しかなかったです。
しかし、やはり石巻の高齢者の方々は津波を経験している方もいらっしゃったようで、お年寄りの方々に教えていただいていて一番よかったと思ったのは、「地震で津波が来たらとにかく高いところに逃げなさい。逃げるときにはとにかく自分だけでもいいから逃げなさい」と母を通じて言われていたことです。
そんなことを教えていただいていたこともあり、今回の地震では、津波は低いところに流れるのだということが分かっていたので、低いところを避けて歩いて帰ってきたというところがありました。うちの子どもに聞いたのですが、今回の大震災後、子どもたちも、自分たちで高いところを見つけて逃げるというのを自分で決めているようです。

(聞き手)
阿部さんご自身のお母さまやお祖母さまからそういったお話は受けてきたのでしょうか。

(阿部様)
ありました。元々、私の祖父母は女川の小中学校の先生だったので、なおのこと、そういったことをよく言われていました。

地域や近所の方々の顔を知っておくこと

(聞き手)
 これからの復旧、復興についてのご意見と、今回の震災を通じて後世に伝えたい事をお聞かせください。

(山田様)
後世に伝えたいことはまず、こういった地震があったら第一にいち早く逃げるということです。やはり自分が死んではなんにもならないので、まず自分を生かすということが最も重要だと思います。
次に、やはり自分の地域や住んでいる街をよく知ること、たとえば地形や近所の方の顔などについてです。
そうすれば人的被害も最小限で済ませることもできると思うので、まず地域を知って過ごすということが重要だと思います。

(阿部様)
後世に伝えたいことですが、山田さんからも話があった通りですけれども、自分が住んでいる地域の状況や環境、あとは隣の人が、いつもどこにいるかなど、すぐに周辺の人の情報をつかめるような状態を自分でしっかり作っておくことです。
また、地震などの有事の際に、自分がどういった動きをするかということを、何かのときに決めておくと冷静に動けるのではないかと思います。

家族等の小単位での行動計画を立てておくという備え

(聞き手)
 最後に、市への要望や、ここまでで言い残してしまったことがあれば、何でも構いませんのでお願いします。

(阿部様)
山田さんも私も、自分たち自身が話した内容について、取り組みの中に活かし、忘れないようにしていかなければいけないと思います。
後は、当時、震災のときに市役所の職員は一丸になって仕事をしたという熱い部分があったので、その熱さが冷めないでほしいという気持ちです。
やはり時が経てばまた元に戻っていくのが普通の人間ですから、そうならないように、仕事にうまく活かせるものは残していきたいと思います。

(山田様)
このような大震災になると、マニュアルや計画が全然機能しなかったという話が先ほどありましたが、そうであれば、小さい単位で、例えば係だったり、課だったり、家族だったりというところで、何か対策や行動計画などを作っておくと、大きいことはできなくても、小さい範囲である程度スムーズに動けるのではないかと思います。
小さい単位、例えば家族単位でもいいですから、こういう風になったらこうしようというようなことを常日頃から話したり、たまに実験でやってみたりということが、一つ一つ重なっていくと、より大きい計画に結びついていくと思うのです。
小さいことから積み上げていけばなんとか大きいものだって大成できると思います。そういうことに、この話が少しでも役立ってもらえればいいと思います。